千種さわやかクリニック通所リハビリテーションの理学療法士・柔道整復師・鍼灸師の新田です。暖かくなる五月は五月晴れで初夏前のとても気持ちのいい季節で好きです。暑い夏も大好きです。ついでにsnowboardのできる冬の雪山で滑るsnowboardも最高です。と、この話はココで…。

前回に引き続き、今回も卓球についてお話していこうと思います。

小学五年で卓球と出会ってから、小さなおもちゃの卓球台で打つことに興味を持ち始めて父に今日も卓球しようと言い出す毎日が始まっていきます。

私はもともと島根県出身です。島根県にあるド田舎の日原小学校で卓球部があったかなかったか定かではありませんが、小学校では卓球台があり、そこで遊んでいたのを覚えています。

大きな卓球台で家のおもちゃの卓球とはくらべものにならなかったですね。思うように出来ないことが悔しくて悔しくて、小学校の授業が終わって帰ってごはん食べてすぐに父と対決が始まります。父は小さい頃かじる程度に卓球をやっていたそうで、当時小学5年生の私からしたらうまいと思っていたのを覚えています。

父が仕事の時はラケットでピンポン玉をついて遊んでいました。父はこんなに好きになるとは、、、と思ったのでしょう。今度、私の住んでいる町の卓球をやっているクラブがあるからそこに行って練習を教えてもらおうか?と言われて即答で「行きたい」「行ってみたい」と言いましたね。

そこから本格的に卓球という当時マイナーなスポーツにはまっていきます。初めて行く卓球クラブは夜20時からやっていました。そこのクラブは鹿足郡日原町というところにある鹿足クラブといって、当時島根県では1~2位を争うようなクラブだったのです。しかも、全国で8本の指にはいる松下浩二(当時の全日本チャンピオンでオリンピック代表)と並ぶカットマンが実は私の家の近くにいたことをあとで知ることになります。その話はまた今度…。

鹿足卓球クラブでは、市役所で働く福岡大学出身の方が教えていました。当時、ラケットの持ち方からきちんと教えられたのを覚えていますね。毎週金曜日に母に連れていってもらい。卓球の練習をしていました。終わるのは22時頃…ずっと練習していました。最初はラリーができるように何回もミスしては、もう一回といってやっていましたね。当時はまだフォアハンドが主流でしたのでまずフォアハンドでラリーを10回~20回…30回とできるようになっていきました。当時本当に目がキラキラ(がり勉の眼鏡でダサいのですが…“笑“)して本当に楽しかったです。小学6年生になった頃には、もう父と卓球するより、鹿足卓球クラブで大人相手に練習した方が面白かったですね。

そこでまた、おもしろい話が入ってきます。中学生の兄貴的存在の中学2年か3年生で強い人がいました。その人か、大人の人か忘れましたが、そんなに卓球が好きなら、日原中学校で卓球部があるからそこに行って練習させてもらったらと言われます。私は、もっと練習できる時間ができるの?!となり、「行きます」「行ってみたい」ですとなります。当時は母の送迎で卓球クラブも行っていたため、迷惑をかけたな~っと今になって思います。本当にありがたかったな~と思います。

今日はここまでにしておきましょう。次回は『小学校6年で中学校の卓球部に練習に行く』の巻きです。またここから金曜日は鹿足クラブで20時から練習、土曜日は中学生との練習が始まっていきます。今は卓球はぜんぜんしておらず、デイケアで理学療法士として今仕事を覚えるのに必死になっています。

訪問リハビリテーションも少しずつ件数が増えてきていますので、何か介護保険でリハビリテーションがしたいという時は気軽にお問合せくださいませ。できるかぎりの支援はしていきたいと思っていますので是非きてみてください!それではまた!!